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NEWS<なぜ津波で洗われる地域に家を作ったのか?>
 もともと田んぼだったところに、なぜ、海の近くに家を建てたか、のか。

 gooニュースに載っているこの記事についてですが、なんかね、この地域が特有のもののように説明されているんですが、私にはそうは思えないのですよ。

 話は随分と遡ります。25年ほどですけど。
 当時、今の立川市のお隣の国立市に住んでおりましてね、急性のA型肝炎で45日ほど入院したことがありました。その病室に入院していた他の9人は、みなさん地元の人ばかりで、しかも明治大正に生まれた方ばかりで、昭和生まれは私だけでした。
そこで、私は、どうでもよかったのですが、国立市がどういう風にできていったかを聞くことになります。

 昔は、甲州街道沿いが栄えていて、鉄道が敷かれるときには、そんなうるさいものは離れたところに置いてしまえ、ということで、その頃はまだ山林だった現在の国立駅の場所に駅を作ったとのことでした。その後、街道よりも鉄道の方が栄えてしまって今の国立市が作られていった、とまぁ、ちょっと途中は忘れてしまったのではしょりましたけど、そんな歴史を聞くことが出来たのです。

 さて、陸前高田市に話を戻しましょう。

 私が生まれた1961年(昭和36年)頃は、高田町のバス通りが繁栄していて、駅周辺には商店街がありましたけど、線路沿いにはまだ家は少なかったんではないでしょうかね。で、そのバス通りと線路の間にバイパスが走っていました。大船渡市と陸前高田市を結ぶ山越えの道は有料道路でした。その道が線路にぶつかるあたりから、線路と平行に高田町に続いていて、それがバイパスになって姉歯橋を通って、気仙町に繋がっていました。その先、気仙沼へは海沿いのがけっぷちの道路しかなかった記憶があります。そのバイパスには工場も建っていましたし住宅というよりは会社などが建っていましたね。
つまりは、より便利なところに建物が建っていっただけなのかも、ということですか。

 で、高校に入った頃には、線路の周辺にも家が立ち並ぶようになっていました。私の担任の先生の家は線路沿いにありました。そう、宮城県沖地震があった頃です。それからしばらくしてからでしょうか。線路と海岸線の間に更なるバイパスができたのは。そして気仙大橋を経由してもうちょっとだけ内陸に気仙沼へ抜ける立派な道につながったのです。高校を卒業して地元の自動車学校で路上教習したときには、線路と海岸線の間にはバイパスはなかったはず。

 バイパスができたのと、バス通りの商店街が寂れて行ったのは同じだったんではないでしょうか。私は高校卒業後、ふるさとを離れましたので詳しくはわかりませんが。出れば出たで、自分が今までいた場所というところがどういうところか、というのは見えてくるものなのです。
陸前高田市は(おそらく)観光で生きていかなければ成り立たない街だったのではないでしょうかね。でも、動線は、立派な道路を通って大船渡市に抜けていく、そうしたら、バイパスに店を出すしかない。そこには家も建ったでしょう。

 1年に1,2回しか帰省しない私には、その変わり様があきらかでした。


 なぜ、津波に洗われる地域に家を建てたか。

 三陸沿岸は度々、三陸沖地震や津波、チリ地震津波の被害があるところです。だから、波が来るのは知っていたと思われるのです。でも、それでは食べていけなかったのかと思うのです。また、増える人口のために家を建てなければいけなかったか、誰かの政治的な力で家を建てたのか、分かりませんけど。

 だって、知らないわけがないじゃぁないですか、昭和の三陸大津波で被害にあっているんですよ。
ただね、海岸に張りめぐられた万里の長城のような数m足らずの防波堤でだまされた可能性はありますよね。でも、何度も言いますけど、過去の三陸大津波の高さは数mではなかったんですよ。防げると誰かが言ったのか、大丈夫だと思ったのか。。。

 北海道の奥尻の地震の時もそうだったと思うのですが、海の側が便利だから家が建っていった、と。
どっかのように、「ここより低い場所に家を建ててはいけない」という石碑があって、ごく限られた範囲でなら、代々受け継いで守ることができると思うのですよ。こんな広い地域でそれを守るのはとても難しいと思うのです。

 長くなってきたので、そろそろまとめたいのですが。

 一言で言うならば、どうせ守られないのであれば、いっそのこと、「家は高いところにしか建ててはいけない」ではなく、家は流されてもいいから人的な被害を少なくできるように、つまりは、社会的な弱者でも10分以内で避難できるようなものを建てればよいのでは、ということです。
アメリカの竜巻の場合は地下室ですが、そういうような一時的な退避場所をあちらこちらに作ったらいかがでしょうか。

 言い方はひどいかもしれませんが、津波NO!! ではなく、津波Welcom にしたらいかがですか? いつ津波が来ても逃げられるようにしておく。これが最大の防御なのではないかと思うのです。


さてさて、gooニュースから。冒頭と、終わりを抜粋で。
記事はこちらです。

===
 「千年に一度の災害にどう備えるのか?」

という問いを耳にします。今回の東日本大震災、確かに稀な規模「想定外」の天災に被災地が襲われたことは間違いありません。しかしそれは本当に「千年に一度の災害」なのか?津波災害の本質を、少し角度を変えて考えてみたいと思います。今回からのお話の骨子は、地球・惑星科学の茅根創・東京大学理学部教授にご教示頂きましたが、本稿の文責は100%伊東にあり、もし内容に瑕疵があれば、その責は一身に僕が負うものであることを、最初に記しておきたいと思います。


一枚の古い地図から・・・

~~~~~~

 ほんの10年前までは人家が絶対になかった田んぼの端に沿って気仙大橋と道路が出来、海岸道路には「道の駅」や「野外活動センター」が作られています。先祖代々、1000年来絶対に人家など出来ようのなかった、海辺の田んぼのもっとも砂浜寄りのエリアが、観光を中心に第三次産業の進展によって確実に都市化している・・・都市化してしまった。自然の景観は完全に失われ、海岸線から遠く離れた(と思い込んでいた)陸前高田の町の人々は、自分たちがついこの間まで海辺の田んぼだった低地の湿地に住んでいるとは認識していなかった。

 自然景観の喪失。

 このことが、市民に与えた心理的影響は決して少なくない、と茅根先生は言われます。まさかこんな内陸まで津波がやってくることはあるまい・・・そんな漠然としたイメージが、避難行動を遅らせ、被害を拡大させた可能性が考えられます。

 人工的景観による錯覚。

 地球史規模で考えればついこの間まで、奥まった深い入り江、つまり湾のど真ん中だった場所にたまさか、河川や津波の堆積物が折り重なって、どうにか陸地が出来ていた。そんな場所に住んでいるという自覚は、市民の大半になかったのではないでしょうか? そしてそれらが全部、今回の津波で甚大な被害をこうむってしまった。この事実を前に、今後の安全対策を考える上で

「1000年に一度の災害にどう備えるべきか?」

という日本語は適切な問いを発しているか? 僕はそうは思わないのです。あれから一年が経過し「正しく怖がる放射能」のサブタイトルの元で、物事を土台の基盤、つまりこの場合は「地盤」から根底的に考えてみたいと思うのです。次回も引き続き、もう少し掘り下げて、検討してみます。
===
by 47__xxy | 2012-03-31 20:53 | NEWS「災害」 | Comments(0)
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通称:なかちゃん。★東ニ病気ノコドモアレバ…西ニツカレタ母アレバ…南ニ死ニサウナ人アレバ…北ニケンクヮヤソショウガアレバ…★弱い立場中心の世の中に @WofNaka
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