振り返ってみる ~誕生から大学生~(追記)
いきなりですが。。。

超、過去に遡ってみたくなりました。
思い出したら、追記していきますね。(最終更新:2011/09/23 13時)
===
★誕生

1961年、冬。
ある雪が降った朝に、自宅で産婆さんに取り上げられました。兄は病院で生まれていますので、自宅で生まれたのはその当時でも珍しかったのではないでしょうか。
未熟児で生まれまして、歩くのに1年半かかっています。
両親は女の子が欲しかったようでした。(まぁ、希望に近い状態では生まれてきていますけど)

小さいときの写真がありますので載せておきます。
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★保育所

 4年入っていました。物心付いたときには保育所にいました。兄も預けられていて、お昼寝の時間になると、私は枕を持って兄がいる部屋に行き、兄の布団に通って一緒に寝ていたそうです。とてもほほえましい姿だったらしく評判で、仲のいい兄弟と見られていました。
ご飯を食べるのが遅く、昼寝のため教室に布団を出すため、よく廊下に出されてご飯を遅くまで食べていました。

★小学生

 小さいときから親や兄の影に隠れているような暗い子だった。
目が悪く、小学1年生から6年生まで、ほとんど毎日バスで眼科に通っていました。
家から数分以内に、中学校、小学校、保育所がありました。
だから、遊び相手が同級生ではなかった。兄の友達といっしょに遊ぶ事のほうが多かった。

 5年生のとき、転校してきた双子の女の子を好きになりました。同級生の男の子はみんなその子を好きでした。それから同級生の女の子とまま事をしたことがありましたなぁ。

 学校では算数、社会、音楽が得意でした。それ以外はひどかった。音楽はハーモニカや縦笛、鉄琴とか。でも歌うのが一番好きだったのかも。合唱部に入ろうとして、「男がいないからダメ」って言われたことがありました。文部省唱歌が好きでした。

 運動は、全くダメ。鉄棒、マット運動もダメでした。
5年生のとき、剣道を習いました。そのほかは卓球やってました。

 高学年の体育の時でしたかねぇ。男女別れてサッカーをするときに、女子だけの中に入れさせられました。体力的に男子側でない、との担任の先生の判断だったのでしょうか。屈辱的でした。
それでも女子よりも何かが良かったんでしょうか、ゲームの中心になっていて、でも浮いていました。
こういう差別は目立つから嫌でした。(追記:2011/05/08 19時)

★中学生

 兄の成績が優秀だったことから、その恩恵も受けました。
中学までは、自分の意思に関わらず、一目置かれていました。おかしな話です。

 中学2年生で、運命のアマチュア無線の資格を取ります。兄も持っていましたけど。
今までの暗いイメージは一掃されます。無線はおしゃべりしないと文字通り話になりませんので、いろんなことを話せるようになっていきました。友達も同級生ばかりではありません。大人の友達もできました。
今まではとても地味な委員会だけだったのが、無線をやるぐらいだから、放送ぐらいできるだろう、というむちゃくちゃな判断で、放送委員を任されました。

 また、中学3年の時、学校に眠っていた楽器に触る機会がありました。用務員の若い方が、私にすべての楽器を触らせてくれました。果敢にも3年生の秋の市内の陸上の記録会でブラバンで応援した、無謀な時期もありました。

 クラブは、野球、テニス、卓球、女子バレーしかなく、どれかに入らなければなりませんでした。野球以外は全部全国大会に出るくらいすごかった。一番入りやすそうだった、小学生でもやっていた卓球部にいました。
(追記:2011/05/08 19時)

 恋愛とか、そういう雰囲気が全くない同級生でした。

★高校生

 高校生になり、兄とは別れます。行く高校のレベルが違ったためです。
もう、初めての一人でした。のびのびとした高校生活でした。

 中学から高校にかけて、数学のいい先生にめぐり合えたことで、数学の成績は抜群でした。
同級生からも、「おまえは数学だけは天才的だよな」と言われました。
学年でオール5のような成績超優秀なやつらからも一目置かれてました。
そりゃそうだ。彼らよりも数学の成績だけはよかったからね。
ただし、試験前に勉強して平均点以下という屈辱を味わってから、ますます勉強しなくなっていきました。
数学は、授業中に予習して、それで終わり。それで100点採れてた。

 クラブは吹奏楽部、委員会は放送でした。NHK主催の放送コンクールで、2年生の時にラジオ番組部門で全国大会に出た事がありました。私のラジオデビューでもありました。盛岡でのNHKリクエストアワーの3時間番組に生出演したこともありました。番組の見学だけだったのに。。。
アマチュア無線も続いていて、平行して楽しんでおりました。

 暗い部分もありました。体育です。これは苦痛以外の何ものでもなかった。特に水泳。
水着になることが嫌でした。おちんちんが小さいので、もっこりしないとか、毛がなくって色白いとか、胸がちょっと膨らんでましたので、裸になることに強い抵抗感がありました。
しかも小さい頃から目が悪く、水泳させてもらえなかったので、水が怖かった。
それから鉄棒。これもダメ。逆さになることへの恐怖がありました。今でもかな。マット運動もダメでした。何度か、背中から落下したことで拍車をかけました。

 体育が近づくと、胃が痛くなったり、呑気症候群に悩まされました。
明け方に空気をたくさん飲み込んでしまい、胃がパンパンに膨れているところに、朝ごはんを無理やり詰め込みました。高校には、片道7kmを自転車で通っていましたが、途中で、げーげー吐く結果になりました。
これが呑気症候群の症状です。

 吐くと、気持ちが萎えてしまい、そこから引き返すことになりました。
そういうときは、ご飯のにおいでも具合が悪くなっていました。
家族からは、「まるで、つわりだね」って言われました。
女の人は大変なんだな、って思いました。

 初めて後輩から告白されて、付き合うことに。
3対3のグループでの付き合いで、今もそれは友情となって続いています。
卒業間近に、短期間でしたけど、お互いに意識しあった人もいましたけど。。。

 これは高校3年生の時の写真です。(2011/09/23追記)
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★大学生

 大学にも体育はありましたけど、スキーやスケートとかで、それほどでもなかったけど、体力測定というのがあって、それで背筋を痛めてしまった惨めな話もありました。

ミッション系の大学で、クリスマスが楽しみでした。
大学時代は、無線ばっかりやっていました。無線での付き合いが多く、大人の人と泊り込みであっちこっち移動してました。

 両親の影響で実践的なものを身に着けたくて、経済学部商学科に入っていました。
2年のときに日商簿記3級を取得。
資格としては、普通自動車免許も取得しています。

 就職活動中に父親の会社が倒産。念願の銀行を受けることができなくなりました。
今思えば、入らなくて良かったのですが、そのときは、それ1本だったので、ショックでした。

 高校の頃にマイコンという機器が出始めていました。もちろんマイクロコンピュータの略です。
大学の4年になるまで触った事がありませんでしたが、4年の実習のときに、初めてフォートランという言語でプログラミングを経験し、新鮮だったことを思い出しました。

 結局、銀行からIT業界に変更。もっともその頃には、まだIT、という言葉は存在していませんでした。
ITという言葉が世の中に出てきたのは、1990年頃でした。
数学のうちの証明の問題が試験に出て、なんなく突破、就職浪人することなく就職し上京しました。

 クラブには入らなかったんだけど、何かしら入っておけばよかったかなって思います。人生変わったかもってね。でも、それ以上に半田ゴテにぎっていたり、無線をやっていましたね。

 恋愛は、高校からの継続が、あったりなかったり。。。
でもKSと分かったときは、彼女らと付き合っていなくて良かったと安堵したり、寂しかったりしました。
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by 47__xxy | 2011-05-08 14:06 | 日記
<< どうせなら・・・鉛の服を着せてくれ 女房 恐るべし >>



通称:なかちゃん。★東ニ病気ノコドモアレバ…西ニツカレタ母アレバ…南ニ死ニサウナ人アレバ…北ニケンクヮヤソショウガアレバ…★弱い立場中心の世の中に @WofNaka
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